2022年12月2日の日記

東京国立博物館の国宝展、行ってまいりました。

いつもの特別展、つまり海外の著名な画家や仏像などの展示に比べると、書や日本画、刀剣や遺物が多く、いささか地味かしら。などと思いながら足を運んだのですが、そんな懸念を余裕で払拭、「書やべえ!」「刀剣うつくし!」などとつぶやきながら歩く40代を生み出すのに、十分な魅力を持っておりました。

人が沢山いすぎて逆に流れが動かず、一作品にかける時間が多かったのも要因の一つだったのかもしれません。普段なら全く読めないで興味も示さないはずの、草書体をさらに崩したような字なのに、見ているうちによくわからないけど引き込まれていく。こんなことあるんですね。

一つに興味が出ると、その隣の展示物との違いなども分かってきます。この差分がその作品の特徴であり、魅力。それが同時代のものなら人間の違いであり、時代が異なるならば時代背景の違いも含まれる。その一つ一つを味わう時間が半強制的に持たされたのは、私にとっては良いことであったと思うのです。

考えてみれば世の中のことは大体こんなもんだな、とも。興味がわかないことも、まず何かひとつを入り口としてじっくり見つめ、次にその隣のものと比較して違いを楽しむ。違わない部分はそのジャンルそのものの魅力であり、違う部分はその個体そのものの表現である、と。

ジャズでいえば、最初にマイルス・デイビスの「Kind Of Blue」を聴いて、あの圧倒的かつ不思議な魅力を味わった上で、じゃあリー・モーガンを聴こう、ランディ・ブレッカーを聴こう、アート・アンサンブル・オブ・シカゴを聴こう、とやることで、その差分を楽しみ、その向こうにどっかりと横たわる共通した幹の存在を感じ、楽しめる。

おいみんなもっとジャズ聴こうぜ。

違う、そういうことじゃない。話が横に行って斜め上に飛び立つところでした。国宝展のお話。

国宝が持つ魅力が私にそう感じさせるのか、国宝ではない別の書の展示に行ったときに同じような感想を私に持たせるのか、それはわかりませんが、とにかく力強い魅力を感じる、そんな展示でした。

国宝展に続いて東京国立博物館の成り立ちから今に至るまでの歴史を、美術品と共になぞる展示もなかなか面白い。何ならこちらの方がポップでわかりやすかったかもしれません。最後の方には阿吽の金剛力士像や見返り美人を写真で撮っていいよ、というコーナーもあり、これもまたポップ。

ポップと言えば、国宝展を展示している平成館から上野公園に戻る途中の表慶館では、「150年後の国宝展」という展示もやっており、これがかなりポップ。今の時代から未来に残したいものを、企業・団体・個人が考え展示するという、なかなか面白い企画。
例えば東宝ならば「ゴジラ」、サンリオならば「キティちゃん」、吉本興業ならば「漫才」、湖池屋ならば「ポテトチップスのり塩」などなど、よく知っている企業が、自社の歴史も加味しながら「これならどうや!」と博物館に提案してくるものは、「国宝ですって?」とは思うものもあるけれども、純粋に心惹かれます。

参加企業もBtoC企業ばかりかと思いきや、丸紅のようなBtoBの企業や、大林組や首都高・東急のような建築・インフラの企業も展示していたりと、企業のチョイスも興味深い。ジャンルがあまりにも多岐にわたりすぎ、ルール無用の残虐ファイト状態である感も否めませんが、志と心意気を感じさせる、なにより無料で見られるという、素晴らしい展示でした。

まあそんなこんなで知的好奇心をビシバシ刺激された状態で帰宅。ワシも少しは大人になったんじゃろか。と居間のテーブルに目をやると、謎の書置きが。A4用紙の下の方にただ一言。

「Nebuta Festival」

あれ、おれ、書に興味を持ったはずなのに、違いの分かる男になったはずなのに、これの意味するところが全然分からない。上に広がる空白は何を表しているの?ねぶたがどうしたって?と当惑する私。

おれは何を一体知った気になっていたんだろう。この書置きから個性と時代性を抽出してごらんよ。できないのかい?まるでピエロだね。ハハ。と敗北感にさいなまれておりました。

サンキュー息子氏。